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宮城県大崎市鳴子温泉鬼首字八幡原

震災前取材

羽前、羽後に通ずるこの鬼首番所は、天正(1591)伊達領になってから建てられ、士分の横目役所が藩から派遣されて勤務した。尿前番所や花山番所の境目守が土着の郷士だったのとは異なるが、これは鬼首番所の重要性によるものだろう。

鬼首の地は、一説には、この地の広大な草原において、伊達藩が戦力の増強のため秘密裡に馬格改良を行っていたと云う。この地は四方を山岳に囲まれ、国見・鬼首・花立・小豆坂のいずれかの峠を越さなければ入れないので、その目的を達するには最適の場所であったと云う。

寛文9年(1669)に至り藩では境目警固を一層厳重にするために、百姓の中から適任者を足軽に召しだし、都合11人が郡奉行の支配下にあった。規模は長さ20間、横15間で300坪あった。

鬼首は伊達藩直轄地として重要視され、天和2年(1682)、仙台藩士野村六之進が鬼首番所の横目となり、この地に居住し、子孫代々にその職を継いで明治に及んだ。

戊辰戦争の際には、仙台藩は新庄、秋田方面に出兵したが、その折に、この鬼首の地から峠を越えて新庄に入った。