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宮城県石巻市折浜

震災前取材

戊辰戦争の際に、江戸を脱出した榎本武揚が率いる開陽丸をはじめ、七隻の軍艦等がこの折浜に集結した。

慶応4年(1868)8月20日、江戸城開城の当日、官軍は幕府艦を接収する予定だったが、強風のため翌日に延期した。幕府海軍副総裁榎本武揚らは、この虚をつき、旧幕臣諸隊の兵士ら合わせて約2000名を品川碇泊の軍艦8隻に乗せて、房総半島南端の館山湾へ脱走した。榎本武揚は、蝦夷地を開拓し、北辺の防備にあたることは、幕臣のためだけではなく、日本の利益になるものと考えていたようだ。

しかし、外洋に出てすぐに、館山沖で暴風雨に遭い、艦隊はバラバラになり、輸送船「美加保丸」は銚子沖で座礁沈没、「咸臨丸」は静岡の清水沖に流され、修理中に官軍に見つかり乗組員はことごとく官軍に斬り殺され、船は拿捕された。

館山沖でバラバラになった榎本艦隊は、ようやくの思いで順次仙台松島湾に入港した。しかしこのときすでに奥羽列藩同盟は崩壊しかけており、奥羽列藩同盟の幾つかの藩は新政府に恭順降伏していた。会津藩も、すでに城下町は新政府軍に占領され、藩主以下老若男女が篭城し交戦中だったが、もはや風前の灯火だった。奥羽列藩同盟最大の藩の仙台藩も、白河口の戦いをはじめとしたいく度かの戦いで政府軍に押し込まれ、9月12日には恭順降伏を決定した。

榎本は、元新選組副長の土方歳三と共に仙台藩を説得したが、藩論を覆す事は出来なかった。しかしそれでも仙台藩は、物資、燃料の補給、艦船の修理には協力的で、仙台藩の星恂太郎率いる無傷の洋式銃隊額兵隊250名も 養賢堂を出陣し合流した。また、会津をはじめとする東北各地から続々と兵士達が集まり、最終的には榎本艦隊は3000名を超す兵士達とともに、明治元年(1868)旧暦10月12日にこの地を出帆し、蝦夷地へと向かった。