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宮城県大崎市古川師山字城山

 

築城の時期や築城者は定かではないが、延元2年(1337)に笠原氏が奥州に下向し、始めは師山城に居したと伝える。その後、大崎氏の家臣の渋谷(八森)弥三郎の居城と伝えられる。

城は平城で、周囲より5mほど高い位置にある。現在の地形からすると、東西南の三方は湿地帯もしくは水堀で守られ、北側は川が外堀の役割をもっていたようだ。西側が大手口のようで、主郭とその周囲の郭は、1~2mの段差があり区画されている。

天文3年(1534)、新田頼遠の叛乱に端を発した大崎内訌の折、氏家、古川、高泉、一迫氏らは新田頼遠に与し大崎義直に対抗した。義直はこれを自力でおさめることができず、同5年(1536)伊達稙宗に援助を要請、大崎領内への影響力を強めようとする稙宗は自ら師山城へ出馬した。一時は優勢だった反乱軍も、伊達氏の参戦によって古川城、高泉城などを次々と攻め落とされ、最後に岩手沢城も2ヶ月の籠城戦の末和議が成り、ついに開城した。この大崎氏の内乱は、反乱軍の敗北で収束したが、以後も家中の混乱、権力争いは絶えなかった。

天正14年(1586)、大崎義隆の稚児小姓の新井田刑部と伊場野惣八郎が寵を争い、新井田刑部が大崎義隆を新井田城に軟禁したことから、家臣を二分しての争乱に発展した。そしてこの争いは、岩手沢の氏家氏が、伊達政宗に救援を求めたことから、天正16年(1588)、伊達氏と大崎氏の争いに発展し大崎合戦が起こった。

大崎氏が伊達軍迎撃のために前進基地としたのが、師山城と桑折城だった。伊達政宗は、泉田重光と留守政景を総大将にして向わせた。この大崎合戦で伊達氏は軍勢を二つに分け、留守政景率いる一隊が師山城を、泉田重光率いる一隊が中新田城を攻めた。これは、留守政景と泉田重光の間に、作戦上の対立があり、統率に欠けた結果とも伝えられる。

留守政景は師山城を囲み攻めたが攻めあぐね、中新田城を攻める泉田勢と合流すべく囲みを解き中新田に向った。しかし、このとき雪により泉田勢は撤退を余儀なくされ、留守勢は、師山城と桑折城から打って出た大崎勢に阻まれ泉田勢に合流できず、雪原に孤立したが、桑折城に入っていた舅の黒川月舟斎晴氏の温情で、なんとか松山の千石城に撤退した。

その後、天正19年(1591)、大崎葛西一揆の鎮圧に乗り出した伊達政宗は、一揆勢の篭る師山城を攻め落とし、師山城は歴史の表から消えることになる。

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