宮城県栗原市若柳字川南子々松

 

建武新政のころ、北畠顕家奥羽に南朝勢力を築き、陸奥の精鋭を率いて足利尊氏を一時は敗走させたが、その後南朝の勢力は衰退し、延元3年(1338)和泉の石津にて戦死した。

京都に残された顕家夫人と禰々麻、醍醐の姉弟はこのことを知らず、父にあうために京より陸奥に向った。しかしその旅は熾烈を極め、陸奥の地に入ってすぐに夫人は病没した。従者たちもはぐれ、残るは幼い姉弟と従者一人だけになってしまった。

それでも父恋しさのあまり、姉弟は草深い陸奥国をさまよい歩いたが、父の消息はつかめなかった。冬になり、その長い冬がようやく終わり山河が緑がかったころ、醍醐は旅の疲れからか、うつらうつらと叢の中に迷い込んでしまった。

とうとう弟までもはぐれてしまった禰々麻は、呆然とさまよい歩くうちに、農夫から父の死を知らされ、悲しみのあまり従者の隙をうかがい、かたわらの沼へ身を投げ自殺してしまった。

その後、幾日かたって醍醐がふらふらとこの沼地にさまよい水面に浮かぶ姉の姿を見た。姉の姿を見た醍醐は、うれしさのあまり沼の中に飛び込み、そのはかない命を閉じてしまったという。

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