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宮城県山元町坂元字館下

別名:坂本要害

元亀3年(1572)、亘理氏の家臣、坂元三河守俊久が舌状台地に築いた平山城。西側の山側を幅約10m余り、深さ約7~8mの空堀で切断し、他三方は水堀と沼地で守られている。坂本神社の位置が本丸跡で、北側、現在の坂元小学校が二の丸、さらにその北側に三の丸を配し、二の丸、三の丸の間には水堀があり、三の丸まわりにも水堀を配し、土塁には、イバラやカラタチなどが密植されていたと云う。

坂本氏は、小堤城の亘理氏の家臣で、相馬氏との争いの中で居城を失い、新たにこの蓑首城を築いたとされる。坂元俊久は、天正17年(1589)、伊達政宗が新地城、駒ヶ嶺城を攻略した際に、亘理元宗に従い出陣したが討ち死にした。亘理氏は、亘理から遠田郡涌谷に所替えとなり、坂本氏もそれに従い坂本を離れた。

元和2年(1616)、伊達氏一族で家臣の大條氏が2千石で坂本に入り、第八代宗綱から第十七第宗亮にいたる十代のあいだその居城となり、明治維新まで続いた。大條氏は、主に江戸詰で、家老、若年寄、奉行などを歴任、12代監物道頼は加増を受けて4千石の大身となっている。 伊達藩の中では「要害」に位置づけられ、陸前浜街道を守る拠点だったが、十七代大條道徳の代に戊辰戦争を向かえ廃城となった。 現在、旧三の丸の地に坂元要害の大手門が移築され、また大條氏十五代道直が仙台藩十二代藩主伊達斉邦より拝領した豊臣秀吉ゆかりの茶室が現存している。