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宮城県亘理町旧館

別名:臥牛城、亘理要害

中世にこの地は千葉氏の支族である亘理氏(旧武石氏)が支配していた。亘理氏は、小堤城(現大雄寺境内)を居城としていたが、室町時代末期に伊達氏に属し、天正年間(1573~92)、亘理元宗が東方の丘陵上に移ったのが亘理城の始まりと思われる。

天正19年(1591)亘理氏は涌谷に移り、片倉小十郎景綱が城主となった。その後慶長7年(1602)、片倉景綱は白石へ移り、伊達氏一門で伊達政宗の従兄弟にあたる伊達成実が入城し、以後亘理伊達氏が代々在城した。

かつては、西に大沼を外堀代わりにし、南北東は二重の水堀で囲み、本丸部には石垣が積まれた城であったようだ。しかし現在、その殆どは失われ、わずかに南側の内掘の一部が残り公園として整備されている。亘理神社の境内が本丸跡になるが、その本丸も町道により東西に分断されており、二の丸跡はショッピングセンターとその駐車場、大沼は埋め立てられて公民館用地となっている。

伊達領の南辺を守った伊達成実は、白石の片倉景綱、松山の茂庭綱元とともに伊達の三傑と称された知勇あわせ持つ武将だった。永禄11年(1568)政宗より一歳年少で、幼名を時宗丸、通称藤五郎と称した。伊達の本拠城が米沢に合ったときに、成実は信夫大森城にあり、人取り橋の合戦、小手森の合戦、窪田の合戦、摺上原の合戦などに大功があり、伊達政宗の仙道制覇にあたっての大きな力となっている。

天正14年(1586)、二本松攻略後、二本松城主となり、天正18年(1590)の政宗の小田原参陣の際には、会津においてその留守を守った。政宗が岩出山に転封となると成実は角田へ移った。しかし秀吉の死の前後、政宗の元を出奔し高野山に入り、政宗は成実の居城角田を召し上げた。このいきさつは定かではない。

慶長5年(1600)、関が原合戦のおりの白石城の攻防において、石川昭光の陣に入り帰参を許され、慶長7年(1602)、亘理城主となった。大阪冬の陣、夏の陣にも出陣し、伊達の重要な戦いの殆どを政宗とともに戦い、政宗の没後さらに10年長生きし、正保3年(1646)79歳で没した。