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宮城県栗原市金成字館下

震災前取材

安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築いて独立的な族長勢力を形成していたが、安倍頼良と陸奥国司藤原登任との間に戦闘が起き、国司軍はこれを鎮圧できなかった。朝廷は源頼義を陸奥守として赴任させるが、これ以降12年間にわたる戦乱となった。前九年の役である。

この戦いにおいて、この地は朝廷軍の山城となり、また金田八幡宮が勧請され鎮護の地となった。この後、後三年の役も収まり、平泉藤原氏が全盛期の頃は、藤原氏の篤い庇護の下繁栄の時代が続いた。

安永の風土記には、炭焼藤太を父とする、金売橘治(吉次)、橘内、橘六の三兄弟の館が、金田八幡山の三ヶ所にあり、それぞれ東館、南館、西館と呼ばれていたことを伝えている。

特に長兄の金売橘治は有名で、承安4年(1174)、鞍馬山で牛若丸(源義経)と出会い、平泉の藤原秀衡のもとに案内する途中、この東館に泊めて、義経は金田八幡宮に平家追討を祈願したと言う。

その後、寛政12年(1800)には、北海道探検の近藤重蔵が二、三度立ち寄り、また、林子平と親交の深かった塩竃神社の宮司の藤塚知明、紀行文で有名な菅江真澄、俳人として有名な丈左房などの文人墨客がここを訪れている。