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宮城県登米市登米町寺池字桜小路

震災前取材

登米伊達氏は白石宗直のとき、和賀忠親の一揆を助け、責任者である宗直はその責を問われる形で、それまでの水沢から所領を減らされ登米に移された。

登米は名目上1万5千石だったが、葛西一揆などによって住民の流出と田畑の荒廃が相次ぎ米がほとんど収穫できない状況にあった。宗直は北上川の改修や新田開発に力を注ぎ、登米寺池を二万石余の所領に育て上げた。

大坂の陣にも出陣して功があり、元和2年(1616)、伊達氏の一門に列し、その後代々登米伊達家として続いた。

寺池は、登米伊達氏2万1千石の城下町として栄えた。町内には当時の武家屋敷の門や白壁の蔵、古い商家の建物などが並ぶ。また旧登米高等尋常小学校の校舎など、明治、大正の文化を香らす建物がいたるところに見られる。