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宮城県栗原市金成有壁字本町

震災前取材

有壁村名の由来は、田村麻呂伝記にある「壁有るが如し」から来たとされ、この地域一帯には蝦夷との戦いに関する伝承が多い。岩手県との境にあるこの地は、いまもかつての奥州街道の面影を残す数少ない旧宿場町のひとつ。東北本線有壁駅の北東約0.3kmにあり、奥州街道の金成宿と一関宿の中間に位置する。有壁宿は元和5年(1619)に道が拓かれ、常備の人馬は、人足二十人余、馬二十疋余で、佐藤家が代々この宿の本陣と町の検断を勤めていた。

延享元年(1744)、本町が全焼したため、旧位置から現在の場所に移った。これをきっかけとして、有壁本町は片側に一間ずつ引込み、両側にて二間引込んで、水樋戸を掘っている。

この宿場は、いわゆる「日割りのよろしき場所」にあり、盛岡、八戸、松前、一ノ関各藩の参勤交代で使われた。特に一ノ関の田村氏は、参勤交代の際ここでお召し換えをして江戸へ向かった。また田村氏は年に4回~5回江戸へ行っている。この本陣には一年に200泊まり程あり活況を呈したようだ。このため、御本陣のふすま絵や屏風絵は毎年取替え、また身分によってもとりかえたと言われている。

明治9年(1876)には、明治天皇奥羽巡幸の休憩場所となり、明治14年(1881)の第二次巡幸にもここで休憩したが、その折に、十万坂や肘曲がり坂は、板ごしに乗り、本陣には馬に乗って入ろうとしたが、馬があまりにも大きく立派だったために、御成門につかえたというエピソードも残っている。

国の史跡に指定されている本陣跡は、元和5年(1619)創建という由緒ある建物で、道路に面した板張りの二階建て長屋と重厚な構えの御成門は、延亨元年(1744)の 改築とはいえ歴史の重みを感じさせる。