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宮城県栗原市金成有壁館下

震災前取材

栗原市有壁の萩野小学校西側の、高さ約40mの丘陵が館跡。東西約40m、南北約60mほどで、中世の城館としては比較的小さい。山頂の平場は長方形で、北側から北東へ土塁がまわり、北には腰郭がある。

この地は、葛西氏と大崎氏の接点にあたり、当初は大崎家家臣の後藤美作、菅原帯刀の居館だったが、その後元亀2年(1571)には葛西氏の所領となり、葛西家臣の有壁尾張、有壁安芸、有壁摂津の三代にわたっての居館となった。

しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏は改易となり、有壁氏一族は仕置軍との合戦で討死したとされる。大崎葛西一揆の後、伊達氏による桃生郡須江山での大崎葛西氏物頭衆の誅殺の際に、有壁遠江守が、この謀殺の指揮に当たった伊達家臣屋代勘解由景頼と、壮絶な一騎打ちの末討ち取られたという。