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宮城県栗原市栗駒稲屋敷大鳥

震災前取材

九戸城(現岩手県二戸市)の城主、九戸左近将監政実は、南部一族の中でも随一といわれる勇将だった。南部氏は、第二十六代の後継者選定を巡り、二派に別れていた。 結局は、田子九郎信直が後継者と決定したが、九戸政実との反目は深刻化した。

南部信直は、九戸政実との争乱を収めることができず、天下の惣無事令に背くものとして豊臣秀吉に訴え、秀吉はこれに応じた。 このため、政実は秀吉の大軍と戦うことになった。

中央軍は、三好中納言秀次(豊臣秀次)を総大将として、蒲生氏郷、堀尾吉晴、浅野長政、井伊直政などの軍、6万、それに対して、九戸勢はわずかに5千だった。 九戸勢は、天険の城の九戸城に篭り奮戦し、中央軍の被害は大きく、一ヶ月対峙するも落とすことは出来なかった。

その内、秋も深まり、大軍の中央軍は、その兵糧にも事欠く状態になった。 そのため、浅野長政や蒲生氏郷は、謀略をもって政実に開城を求め、政実らはこれに応じ開城した。

中央軍は政実らを捕らえ、一気に九戸城を攻め、将兵らをなで斬りにしたという。 政実らは、この三迫の地に引き立てられ、一言の弁明も許されず、斬首され、この泉でその首を清められたと伝えられる。