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宮城県栗原市花山字本沢三ツ岩

震災前取材

別名:華山(かざん)城

渕牛(えんぎゅう)館は、陸奥の豪族安倍頼良(後に頼時)の築城で、その子の安倍貞任の居城とされる。それより以前は華山(かざん)城と称した。頼良と貞任は、鬼切部の戦いでは、この城を基地として善戦したという。

この城は、一迫川の断崖上の山城で眺望に富み、大手門、主郭、城兵宿所、馬屋、見張塁4ヶ所、外空堀、井戸2ヶ所、土塁、城内通路などを備えていた。

前九年の役の折には、貞任は牛渕の一番狭い地の猿跳(さるっぱね)を岩石や丸太で堰きとめ、城の周りに水を湛え守りを固めていた。康平5年(1062)の夏、源頼義、義家軍2700余騎は、裏手の軍沢(いくさざわ)より渕牛館を包囲した。貞任軍はよく戦ったが利あらず、貞任は一部の兵と脱出し衣川に逃れたが城兵は全員討ち死にしたという。

落城後は、源氏の家臣の佐藤左衛門公清(きみきよ)の居城となり、応永5年(1398)まで支配し、その後葛西氏、大崎氏の家臣となり、伊達政宗のとき廃城となったと云う。