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宮城県柴田郡川崎町支倉字宿…円福寺

震災前取材

 

支倉六右衛門常長は、伊達政宗の命により、慶長18年(1613)9月、イスパニア、ローマへ使節として、宣教師ルイスソテロ、答礼使セバスチャンビスカイノ等とともに、サンファンバウティスタ号で、牡鹿郡月ノ浦港を出帆した。

国王フィリッポ三世、法王パウロ五世に謁見し、使節としての使命を果たして、元和6年(1620)帰朝した。しかし、8年の歳月を経た日本は、幕府の鎖国令、キリスト教弾圧の厳しい世相に転じていた。常長は幕府の目を逃れ、支倉家の領地であるこの地に隠棲したが、二年後の元和8年 (1622)7月、52歳の波乱に富んだ一生を終えたと伝えられている。

この地の宝形印塔は、支倉常長を埋葬し、弔ったものと伝えられている。

支倉常長の墓と伝えられるものは、他に仙台市、大郷町にもあり、またその没年も84歳の天寿を全うしたとの説もあり、定かではない。いずれにしても、支倉常長の渡欧は、徳川家康の許しを得て行ったものであり、幕府も触れたくないことであり、鎖国令がしかれている中では仙台藩も触れたくなかったことではあったろう。

この当時は、常長の偉業は記録もされず、表舞台から遠ざけられ封印された。その偉業が日の目を見るのは明治に入ってからとなる。