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宮城県名取市高館吉田

現在、仙台近郊の新興住宅地になっている名取市の「那智が丘」の山続きに高館山があるが、ここには藤原秀衡が築いたとされる高館城があった。秀衡は、幼い頃はこの地で育ったとも伝えられ、名取は平泉藤原氏とのつながりが特に深かったようだ。

秀衡の死後、鎌倉の源頼朝は、平泉征討軍を発したが、この城には、本吉冠者隆衡(秀衡の四男)、日詰五郎頼衡(秀衡の五男)、名取別当の金剛坊秀綱と2万の兵がつめ、鎌倉軍を迎え撃った。結局平泉側は負けて、本吉冠者隆衡は京都に逃げて鎌倉打倒の兵を起こそうとしたが失敗、自害した。また金剛坊秀綱は降伏し、後に許されて 名取に戻り高舘山に秀衡を祀ったという。

この地には、源義経が鎌倉から追われ、高舘の山に隠れ住んだとも伝えられ、その地を「九郎ヶ崎」と云い、また「秀衡ヶ崎」という地もあったが、いまは住宅地となり地形は変わり、定かではない。

その後、南北朝時代には、南朝方の名取小平太の居城であったらしい。小平太は、北畠顕家に従い大阪で戦死したとされる。また、南朝方の多賀城を攻める際には北朝方の前線基地となったとも伝えられる。詳細は定かではないが、名取地方は、南朝、北朝方の間で激しく揺れ動いた様子が見られる。

戦国期には、この地は国分氏(仙台)、亘理氏(亘理郡)、相馬氏(福島)、伊達氏(米沢)といった武将の勢力が入り乱れていたが、政宗の曽祖父伊達稙宗のころには、名取郡をほぼ制圧し国分氏と対立していた。 その境の地にあった高舘城には、福田五郎が勢力をはっており、国分氏から名取郡の半分を任され、また伊達系の武士をもまとめていた。しかし、伊達氏の勢力拡大とともに、国分氏の勢力は伊達氏に組み込まれ、この城もいつしか伊達氏の前線の城となっていったようだ。

現在、城跡は未整備で、空堀、土塁、平場の遺構は残っているらしいが、どの部分がそうなのかは定かではない。また、現在の尚絅短大の場所が、この城の出城だったという。