宮城県仙台市若林区南鍛冶町…泰心院山門

 

この山門は、勾当台にあった仙台藩藩校養賢堂が明治維新後県庁舎に充てられ、正門が洋風門に置きかえられた際に現在地に移建されたものである。

一間一戸の堂々たる四脚門で屋根は切妻造、桟瓦葺で伊達家の家紋「三引両」と「九曜」を配した漆喰塗りの棟や細部の装飾など重厚な外観となっている。

藩校は、江戸時代に諸藩が藩の子弟を教育するために設けた学校で、仙台藩では元文元年(1736)に開設の学問所を前身とし、安永元年(1772)に養賢堂と名づけられた。文化六年(1809)に学頭となった儒学者大槻平泉は大規模な学制改革と施設拡充を行い、文化14年(1817)に講堂が完成し、この正門もそのときに建立されたものである。

仙台藩は諸藩と比べても極めて高い教育水準を持ち、仙台藩からは、林子平、大槻玄沢、高野長英など多くの時代のさきがけを輩出した。

養賢堂は、幕末には仙台藩の洋式銃隊の精鋭、額兵隊の宿舎としても使用された。戊辰戦争において、額兵隊が出陣間際に、仙台藩は降伏を決定、これを良しとしない額兵隊は、この門を通り出陣し、その中の250名ほどは、仙台領に碇を下ろしていた榎本艦隊に合流し、函館戦争を戦った。

戊辰戦争で賊軍となった仙台藩において、養賢堂は明治政府に接収されて、後に宮城県庁として使用された。当時、仙台藩の養賢堂は、藩士達の心のより所となっており、薩長軍が正門をくぐることができないように、薩長軍の仙台侵攻に先立ち、正門を解体し隠し、 後にこの泰心院の山門となったとも伝えられる。

講堂他の諸建築は戦災で焼失したため、この門は養賢堂の唯一の遺構である。

 

・泰心院

泰心院は曹洞宗寺院で、伊達氏十四代稙宗(仙台藩初代藩主伊達政宗の曽祖父)の夫人泰心院(芦名氏)の菩提寺として米沢で創建された。その後、岩出山を経て慶長12年(1607)仙台の現在地に移ったが、度重なる火災のため藩政時代の建造物は現存していない。

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