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宮城県仙台市若林区白萩町…国分尼寺

  和賀忠親とその主従7人の墓石は、本堂の後ろにひっそりとが立つ。 和賀氏は陸奥国和賀郡を支配していた領主だが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、領地を没収された。和賀忠親は伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に住んだ。 慶長5年(1600)夏、 関ヶ原の戦いの折に、南部利直は兵4千あまりを率いて山形に向かった。その留守に乗じて和賀氏・稗貫氏の残党が各地に蜂起し、和賀忠親は、伊達政宗の家臣の白石氏の援助を得て二子城に入り一揆を起こした。 9月、忠親は花巻城に夜討ちをかけ攻めたが、郡代北信愛などの必死の攻防にあい攻め落とすことが出来ず、逆に岩崎城に逃げ退いた。急を聞いた南部利直は、急ぎ帰国して、10月、岩崎城に軍を進めたが雪のためいったん福岡に引き上げ、翌年の3月、4千7百あまりの大軍で岩崎城を攻めた。岩崎城は20日余りの攻防の後、南部利直の火攻めで落城した。 忠親は伊達領に逃げ込んだが、南部利直は徳川家康に訴え、家康は和賀忠親を喚問することになった。政宗は真相の露見を恐れて、忠親らを仙台に呼び出し、自害を強要したとも、殺害したとも言い伝えられる。 結局、伊達政宗の責任は問われなかったが、関ヶ原の戦いの前に授けられた百万石のお墨付きは反故とされた。