宮城県仙台市宮城野区岩切字三所北

 

岩切城の領主留守氏は、岩切の荒地を開懇し新田を作って領地を拡げていった。奥州の政治が安定し新田の開発が進むにつれて、陸奥国の経済も豊かになり、百姓の大きなものは産物の売買を始めた。

留守氏の中期以降の所領譲状に、冠屋市庭と河原宿五日市庭の在家が記載されている。これらの市は七北田川(冠川)の流域に開かれた。初めは役人が行商人から生活用品や贅沢品を買うために開かせたものだが、農民たちもこれを利用する様になった。

留守氏の勢力が弱まってからは岩切の里もひっそりした農村になり歴史の舞台から遠ざかってしまった。

伊沢家景の家臣にかつて兵藤六郎兵衛久俟という人がおり、兵藤氏は代々岩切村に住んでいた。五代目の兵藤大隈信俟は今市へ移り住み野原に新道を開いた。鷹狩に赴いた政宗に新田開発と宿場取立を願ったところこれが許され、「むろ役、酒屋役、馬売買役、染師役、犬之弱、木綿きわた役、塩之役、かき役、紙の役」の十種が免許された。 この時今市は仙台藩の新町として取りたてられた。月に6度の市が立ち、この事から地名が今市と改称された。今市は、新しい市場町、新興の市街といった意味になる。

市の立つ日は近郷近在からたくさんの人が集まり賑わった。仙台から塩釜、石巻への街道として旅籠屋や茶店も立ち並び、寛政9年(1798)頃には一段と栄えたという。特に藩主綱村および吉村は塩釜神社への月参り、瑞巌寺参詣の帰途には必ず立ち寄り昼食をとったという。

兵藤大隈は、原野を切り開き田畑を開墾した。また用水を七北田川から引き、さらに、寛永年間には兵藤大隈らの今市の住民34人が伊達家の足軽として取りたてられた。これを「今市足軽」と呼んだ。

この今市足軽が内職で「今市おこし」をつくり、近くの比丘尼茶屋や岩切洞の口にあった茶店で売ったところ、大変評判になり、案内の湯豆腐、比丘尼坂の甘酒とともに塩釜街道の名物となったという。

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