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 宮城県仙台市宮城野区燕沢一丁目

・案内の地名の由来

伊達政宗が岩切城(高森城)を攻めようとしたとき、この地の百姓が道案内の役目を務めて戦を有利に導いたというのでこの地を案内と呼ぶようになったという。

・御立場の地名の由来

この付近は今も御立場というが、伊達家の家法として、年始の正月三日の早朝、上は一門から下は大番組に至るまで、美装に身をかためて城から岩切へ行列をくりだし、藩主は案内の高台の本陣において初鳥狩、即ち御野初めの儀を行った。この儀は年毎の吉例として雉や兎を追い立て生け捕り、あるいは首を抜き取って相争うのである。そして藩中の武備、兵馬の綺羅を競い、砲声山野に轟く。

この儀は極めて厳重で、案内の丘から今市の北、高森館、松森の館、等に亘り、紅白の旗を振り合わせ、ほらの貝で合図するなど壮観であった。この時、標幟をたてて監視したのが、この案内の追標幟場(おいたつば)であり、それが訛って御立場(おたつば)になったといわれる。

・松原街道

原町から比丘尼坂までの街道両側に、約5m間隔で松が植えられていた。これは伊達政宗が植えたといわれ、樹齢300年以上、幹周が5mの松も多くあった。そのため、塩釜街道のこの部分を松原街道といった。 昭和18年(1943)、太平洋戦争末期に、国が軍用航空機のガソリン不足の対策として、松の木の幹は輸送船用材に、松の根からは松根油をとるため伐採した。近くの住民から人力を徴用して松の根を掘り出し、鶴ヶ谷方面で採油作業をした。戦後、搬出されなかった松は放置されたままで、家庭の燃料として切られ、最後には松の根まで燃料にされてしまった。

・案内温泉

昭和4年(1929)、菅野喜八郎が開削した井戸から温度15度アルカリ性の湯が噴出した。JRの開通で衰退した塩釜街道だったが、この温泉は当時薬湯と呼ばれ傷、火傷に効用ありと大いに賑わった。近郷近在の人たちが馬車や荷車に筵を敷き、5~7人が乗り来湯し、人々は弁当を広げ談笑、踊りで大騒ぎをした。娯楽の少ない当時は、これが近郷近在の人たちの大きな楽しみだった。