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宮城県仙台市宮城野区新田三丁目

  この城跡は、仙台市の東部宮城野区新田に所在し、標高10mほどの低い丘陵地に位置する。仙台領書上には、小鶴村の小鶴城として東西60間、南北36間とあり、また小鶴村風土記には古館として、縦38間 、横27間との記録がある。 城の本郭は、屋舗と呼ばれる低地より少し西よりにあたる伝上山(殿上山)というやや高い丘のうえにあったといわれ、大手口は東側にあったといわれている。また丘陵を取り巻く形に巾5mにおよぶ水濠があったといわれており、その名残が本郭跡の西側や、北側に見られる。平成13年(2001)に西端部で、発掘調査が行われ、堀跡などが発見されている。 かつてはこの地は「小鶴沼」を初めとした沼や湿地に囲まれており、当時の状況は水城に近い要害性の高い城だったと思われる。 『小鶴村風土記書出』によれば逸見丹波守の居館と伝えられる。 貞和2年(1346)、足利尊氏は奥州管領として吉良貞家、畠山国氏を任命するが、足利家内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化すると、両者も二派に分かれて争うことになる。留守氏は畠山氏、宮城氏とともに尊氏側に加担したが、正平6年(1351) 、岩切城での合戦に破れた。このとき小鶴城は岩切城の後詰の役割をになっていたらしい。 留守政景のときに、重臣の村岡氏が政景に反旗を翻し政景に攻められ滅亡したが、これに同調した狛犬城の佐藤氏は没落したが、その後許され、この小鶴城に佐藤三郎が入ったと伝えられている。