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宮城県仙台市宮城野区蒲生

  七北田(ななきた)川は、仙台市北部の泉ヶ岳を源流とし、仙台平野に達して仙台湾に注いでいる。その地によって岩切川、今市川と呼ばれる場合もあり、多賀城や塩釜神社にちなむ伝説から冠(かむり)川とも呼ばれる。 七北田川の河口は、元は現在の河口より約4km北の七ヶ浜町湊浜付近にあった。古くは湊浜付近が多賀城の港であったと伝えられ、多賀城への物資は七北田川を運ばれたと云う。 江戸時代初期に、仙台藩による新田開発のために流路が替えられ、河口は現在の位置になった。また阿武隈川河口の荒浜から松島湾の塩釜まで全長31.5kmの運河が掘られ、この地には舟入が設けられ米蔵が置かれ、この地から高瀬堀、御舟曳堀を経由して仙台城下に米が運ばれた。 また江戸時代には鮭が遡上し、鮭漁が盛んだったが、当時は、鮭留により鮭の遡行を妨げて獲る方法で、他の場所では漁獲量が大きく減少するため、下流の田子村と福室村で、鮭漁をめぐり紛争が起きた。 明治に入り、政府は現在の宮城県東松島市野蒜を拠点とした近代的な港湾計画を立てた。それは福島の安積疎水により猪苗代湖と阿武隈川をつなぎ、さらに阿武隈川と北上川を運河でつなぎ、その中間に野蒜港を拠点とした港を設置し、東北地方の岩手県、宮城県、福島県、山形県を経済圏としてまとめようとする壮大な計画で、この地にすでにあった運河は、その構想の中の拠点となった。しかし、鉄道が各地に敷かれるなど、時代は刻々と変わり、その構想は頓挫した。 河口部は、大量の流砂により不安定で、蒲生干潟はその当時の河道の名残りによるものである。その後仙台港が建設されるにともない、現在の直線的な河道に変更された。