宮城県仙台市青葉区本町…現県庁舎

 

養賢堂は仙台藩が藩の子弟を教育するために、元文元年(1736)、仙台城下の北三番丁細横丁の武家屋敷に学問所が開設された。宝暦10年(1760)に医学教育を開始。宝暦11年(1761)北一番丁勾当台通り(現在の宮城県庁辺り)に移転。安永元年(1772)に養賢堂 と改称された。

その後藩内各所にも学問所等が開設され、仙台藩は諸藩と比べても極めて高い教育水準を持つこととなり、仙台藩からは、林子平、大槻玄沢、高野長英など多くの時代のさきがけを輩出した。

文化14年(1817)の頃には、校舎の大幅な拡張工事が行われ、また、養賢堂から仙台藩医学校を分離設置した。文政5(1822年)に仙台藩学校蘭科を開設し、わが国初の西洋医学講座を実施した。

養賢堂は、幕末には洋式銃兵隊の額兵隊の宿舎としても使用された。額兵隊隊長の星恂太郎も養賢堂の出身である。一説には、新撰組副長だった山南敬助もここで学んでいたという。戊辰戦争を期に賊軍となった仙台藩において、養賢堂は明治政府に接収され、後に宮城県庁として使用された。その後第二次世界大戦で焼失。現在は現代的な県庁舎が建っている。

この伊達藩の教育の伝統は、明治以降にも引き継がれ、養賢堂の伝統は辛未館に、宮城外国語学校に、東華学校にと続いていった。旧制二高が仙台に設置されたこともありその風土は学都仙台を形成し、吉野作造を始めとした多くの人材を輩出し、さらに又多くの文学者をひきつけた。

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