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宮城県南三陸町入谷字桜沢…ひころの里内

震災前取材

江戸後期に建設された郷士・須藤家の住まいで、その造りは地方郷士の代表的な居宅。

現在の母屋は江戸後期の文化・文政時代に建設された。中門を入って、客間の前に式台風の玄関を配し、床の間、棚、平書院を備える正座敷とこれにつながる次の間を持つ点から、地方郷士の代表的な居宅と言われている。

代々の系譜によると、須藤家は、平将門に変わって勢力を伸ばした平安中期の武将、藤原秀郷を遠祖とする。天正3年(1575)、葛西晴信の黒印状とされる文書によれば、牡鹿郡根岸村、沢田村、浅部村に5800刈の知行を与えられていた。

葛西氏滅亡後は帰農したようだが、甲冑70領、軍資金1,350両を献上し、伊達家に仕えたとの記録が残っている。そして、松倉松ヶ沢で田畑を開墾し、天明・天保の飢饉には須藤家の私財を投げうって村民を助け、明治以後も入谷村長を代々務める等地域の発展に大きな貢献をした。

この須藤家の伝承から推測すると、須藤氏は、かつて桃生郡の大森城、七尾城を拠点とし、葛西氏と対立し滅んだ首藤貞通の系譜ではないかと思われる。