宮城県仙台市青葉区子平町…龍雲院

 

林子平(はやししへい)は元文3年(1738)江戸で生まれた。名は友直、のちに六無齋と号した。江戸時代後期に、高山彦九郎、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と呼ばれ、時代の先を見通し、『海国兵談』などの著作を著した思想家。

父が同僚を殺傷し浪人になったため叔父に預けられたが、姉が仙台藩六代藩主伊達宗村の側室となった縁で、兄とともに仙台藩の禄を受け、仙台に移り住んだ。仙台藩で教育や経済政策を進言したが聞き入れられず、禄を返上し無禄厄介の身となった。自由の身となった子平は、全国を行脚し、長崎や江戸で学び、仙台藩出身の大槻玄沢や、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友し見聞を広めた。

当時、ロシア船が日本近海に頻繁にあらわれ、ロシアの南進により北方危機が高まりつつあり、また蝦夷への関心が高まっていた。子平はヨーロッパ諸国に対外的危機感を抱くと同時に、ロシアの南下策を脅威とし、日本を植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた『三国通覧図説』を出版し、翌々年には日本海岸総軍備という論旨の『海国兵談』を出版した。

子平は『三国通覧図説』で、蝦夷地の確保が日本のロシアによる植民地化防止になると考え、ロシア人より先に蝦夷地を日本の領土にするために、蝦夷地を経済的に開発し、アイヌを教化し、日本人の蝦夷地観を改め、蝦夷を日本の国内とする認識を確立すべきと考えた。

また『海国兵談』では、国内外の情勢を記すとともに、日本海岸総軍備の重要性、必要性を説き、総軍備の具体的方法や手段をいくつも提示している。江戸湾岸防備の緊急性を説いたのは子平が最初であり、対外問題の切迫をいち早く公にした。そして海防論での強い対外的危機感、西洋列強との並立の欲求、富国強兵論などは、その後の近代日本全体に強い影響を残した。

『海国兵談』は、海防の必要性を説く軍事書であったため、協力してくれる版元が見つからず、子平は、16巻、3分冊もの大著を、自ら版木を彫って自費出版したと云う。しかし、老中松平定信のもとで寛政の改革がはじまると、幕府に危険人物として目を付けられ、『三国通覧図説』ともども発禁処分となった。このわずか4ヶ月後にロシアの使節ラックスマンが漂流民大黒屋幸太夫を連れて根室に着き、61年後にペリーが浦賀に入港する。

子平は、最終的に、仙台へ帰郷させられ、蟄居処分となりそのまま死去した。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎と号した。

『三国通覧図説』はその後、長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパ各国語版に翻訳された。後にペリー提督との小笠原諸島領有における日米交渉の際、諸島の日本領有権を示す証拠となった。

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