宮城県仙台市青葉区新坂町…大願寺

 

大願寺の山門は、宝永6年(1709)に造営された仙台藩四代藩主伊達綱村夫人仙姫(万寿院)の墓所の門を、明治時代初期に墓所の在った小田原高松から現在地に移築したもの。

稲葉氏仙姫は小田原城主稲葉正則の娘で、後に四代藩主綱村の正室となる。宝永3年(1706)四十八歳で没す。法名は、万寿寺殿宝蓮浄晃尼大姉。

門の前後に唐破風のある妻入の一間一戸の向唐門で、本瓦葺だが、もとは柿葺であったと思われる。観音開きの桟唐戸には、夫人の実家稲葉氏の家紋「隅切角に三の字」が入り、元は全面に漆が塗られていた。細部の造りや文様には禅宗建築の特徴が表れ、江戸時代中期の伊達家霊廟建築を知る事の出来る数少ない門。

仙姫は当時の幕府老中で小田原城主の稲葉美濃守正則の息女で、春日局のひ孫に当たる。16歳のとき、将軍家の取りはからいで、仙台藩四代藩主の伊達綱村と婚約、延宝5年(1677)4月、ともに19歳で結婚した。

仙台藩では寛文11年(1671)に伊達騒動(寛文事件)が勃発し、伊達氏は改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなった。こうして、仙台藩は改易の危機から免れた。

仙姫と綱村の婚姻は、寛文事件の後処理ともいうべき物で、綱村の治世のはじめには、岳父の幕府老中稲葉正則が、綱村を指導した。当時の仙台藩は、寛文事件で現れたように、家中の派閥主義人事が激しく、重役の任用に当たっては、派閥で藩政を独占し、藩主の思うままにならない事態を生じていた。綱村は岳父政則の指導を受けて、当時の幕府の治政にならい、藩主権力の集中をはかり、藩主に忠実な官僚を育成しようとした。

その後、綱村は自ら政務を執り始め、「仙台藩中興の名君」と讃えられた。仙姫との間に三子を設けたが、いずれも早世し、従弟の伊達吉村を養子に迎えて跡を継がせた。仙姫はこの子を愛育し、48歳で死没。法名は万寿寺殿宝蓮浄晃尼大姉。

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