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宮城県七ヶ浜町花渕浜字誰道

震災前取材

第六代考安天皇の時(前392~前291)に岐神として猿田彦命を花渕浜に勧請して神社を創建したと伝えられている。古記録によると、第三十四代舒明天皇の時 (630)に鼻節神社に「圭田四十三束(約一町歩)を奉り祭事を行う」とある。この神社で、多賀城を国府としていた頃に使われていた国府厨印(こくふくりやのいん)が発見された。後醍醐天皇の代には名神社のひとつとして数えられていたという。

承和六年(839)の秋に、ものすごい雷雨があった。雨が上がってから海岸に出てみると石の鏃や、槍先のようなものがたくさん散らばっていた。これを不思議に思った役人が、この珍しい出来事を、京都の朝廷に報告し、石器のいくつかを送った。雷雨に伴ってこんなものがあらわれたのは、なにか良くない異変が起きる兆しではないかと、ときの朝廷は考え、陸奥、出羽、など東北地方の国々、また九州の大宰府にまで命じ、寺々で仏事を行わせ、神社に御幣を奉らせ無事を祈ったと言うことである。

この神社の参道は二つあり、直接海に続く参道と、社殿に続く参道とがある。社殿からも急な石段が海へと続く。

地元に伝わる話によると、かつて下の海には洞穴があり、そこにご神体があったという。現在は地盤の変化によりそれは海中に没しているが、未だに尊崇を集めているという。