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宮城県利府町利府字大町

震災前取材

元亀2年(1571)、磐城の笈弁(きゅうべん)和尚が開いたと言われている。

元亀の始め(1570)、留守政景は「村岡」を「利府」と改め、神谷沢と岩切にまたがる高森山の東麓の化粧坂城から利府城に移った。「利府の上野介館」と称し、天正18年までの約20年間本拠城とした。

この頃、奥羽の名族の大崎、葛西は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、そのため領地は没収されたが、これに対し旧臣たちが一揆を起こした。

この一揆鎮圧は、蒲生氏郷と伊達政宗に命じられ、伊達政宗は米沢から軍勢を引き連れ 、白石城を経て、叔父の留守政景が城主の利府城を本営と定め、旗下の将兵達を各部落に分けて屯営させた。

このとき政宗は、円城寺堂内に軍議をこらす「議士の間」を設け、ここで作戦を練り、松森城に入った蒲生氏郷とともに一揆鎮圧に向った。このとき伊達政宗は24歳、叔父の利府城主の留守政景は42歳の驍将だった。

天正年間、伊達政宗はこの円城寺を再興し、このときの円城寺は本堂の他に、山門、地蔵堂、鐘楼を備えた堂々たる寺院だったと伝えられている。

その後も政宗は、利府方面で鷹狩を行った際には、この寺に度々立ち寄ったと言われている。ある日、政宗と和尚が問答を行った。政宗が「和尚は両眼、我一眼」と問うと、和尚は「天に満々の星あれど、ただ月一点の光に如かず」と答えたという。政宗はこの和尚を気に入り、寺領3貫600文を寄贈したという。