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宮城県松島町松島字町内

震災前取材

開創は平安のはじめにさかのぼる。天長5年(828)比叡山延暦寺の慈覚大師円仁が淳和天皇の詔勅を奉じ、3000の学生、堂衆とともに松島にきて寺を建立した。この寺は延暦寺と比肩すべき意を持って延福寺と命名された。延福寺は平泉藤原氏の外護を受けた。

平泉藤原氏が滅亡した後は鎌倉幕府が替わって大檀越となった。北条政子は当時学徳一世に高かった見仏上人に仏舎利を寄進し、夫の菩提を弔わせている。仏舎利・寄進状は今に伝わっている。

この天台宗延福寺は鎌倉時代中期、開創以来約400年の歴史を持って滅亡した。延福寺にとって替わった寺は、円福寺と命名された。正確な開創年は不明。鎌倉幕府の保護もあり、その勢力を岩手県南部にまで伸長していき、寺格も五山十刹に次ぐ諸山の高位にあった。しかし、戦国時代を経て次第に衰退し、妙心寺派に属した。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが終了した後、仙台に治府を定めた伊達政宗は、仙台城の造営と併せて神社仏閣の造営も行った。塩竃神社、仙台大崎八幡宮、陸奥国分寺薬師堂が相次いで完成する。

瑞厳寺の造営には特に心血を注ぎ、用材を紀州熊野山中から伐り出し、海上を筏に組んで運んだ。名工130名を招き寄せ、工事は慶長9年(1604)、政宗自ら縄張りを行い慶長14年(1609)に完成した。

江戸時代には、伊達家の厚い庇護を受け、瑞巌寺は90余りの末寺を有し、領内随一の規模格式を誇った。しかし、明治維新を迎え王政復古の政策は廃仏毀釈を惹起し、さらに伊達家の版籍奉還による寺領の撤廃が瑞巌寺を始め松島の諸寺院を直撃し、零落、廃絶、焼亡等の憂き目を見た。瑞巌寺はそれでもようやく維持されていたが、明治9年(1876)、天皇の行在所となり、内帑金千円が下賜され、復興の契機となった。

現存する本堂、御成玄関、庫裡、回廊は国宝に、御成門、中門、太鼓塀は国の重要文化財に指定されている。

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