宮城県大和町鶴巣字下草字作内田

 

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下草城があった鶴巣下草地区は、古代に多賀城から大崎地方に抜ける街道が通る交通の要衝だった。下草城は、北に天然の川が流れ、周囲を二重の水堀で守られた平城である。現在は一面の田圃になっているが、内堀はほぼそのまま残っている。

この地の南に位置する丘陵上には、黒川氏が本拠城とした鶴楯城があり、この下草城は、黒川氏一族か、もしくは鶴楯城を詰の城とした黒川氏の居館だったとも考えられる。

黒川氏は文安2年(1445)頃、大崎氏支族として黒川郡に封ぜられた。大崎氏支族として、大崎領南辺を固める役割を担っていたが、伊達氏の北上にともなって、大崎、伊達の二大勢力に挟まれ、応永年間(1394~1527)頃には、伊達氏の勢力下に入り、伊達勢力圏の北辺を固める形になった。

しかし黒川氏九代月舟斎晴氏は、天正14年(1586)の大崎合戦の際には伊達氏と袂をわかち、大崎方として桑折城に入って抗戦、黒川晴氏の軍略により、伊達勢は大敗北を喫する。しかし大崎氏は豊臣秀吉の「奥州仕置」により所領没収の処分を受けて没落し、黒川晴氏は娘婿でもある留守政景の助命嘆願によって一命はとりとめ、以後は政景の保護下で余生を送った。

16世紀末に伊達政宗が県北を平定するために数回立ち寄り、葛西大崎一揆の折には、政宗のほかに伊達成実、蒲生氏郷らも立ち寄っている(鶴巣館の説もあり)。

近世に入り、伊達政宗の三男の宗清が、仙台市泉区の松森館から移り、吉岡城に移るまでの数年間住んだ。このとき、二重の堀を持った平城として整備したが、低地に位置しているため毎年のように洪水に襲われたらしく、地形的に高い大和町吉岡に城を移した。

近くの浄化センターは下草城を意識し、建物、門、塀などがそれらしいデザインで作られている。

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