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宮城県栗原市志波姫町伊豆野大西前

震災前取材

千葉拓三郎生誕地

千葉卓三郎は、嘉永5年(1852)、栗原市志波姫のこの地に、仙台藩下級藩士の父千葉宅之丞のもとに生まれた。

文久3年(1863)、11歳から仙台藩校養賢堂で学び、明治元年(1868)には藩校の仲間とともに戊辰戦争白河口の戦いに参戦した。この戦いで敗戦を味わった卓三郎は、様々な学問や宗教に真理探究の矛先を向け、皇学、浄土真宗、ギリシャ正教を学び、特にギリシャ正教には傾倒し、上京して洗礼を受け、布教活動にも携わっていた。その後も儒学、カソリック、洋算、プロテスタントと広く学んでいった。

経済的に困窮していたらしく、各所を転々とし、明治12年(1879)頃から西多摩の大久野、草花、川口など秋川谷の各地で教職に従事し、明治13年(1880)には五日市に下宿して五日市勧能学校に勤めはじめた。五日市では、学芸講談会の活動を通じて地域の自由民権運動の質を高め、漢詩のサークルなどを通じて地域の文化にも貢献した。

明治13年(1880)、第二回国会期成同盟大会が東京において開かれ、その際憲法起草が議された。卓三郎はこれに応じ、五日市の学習結社、五日市学芸講談会の有志らと共同し、私擬憲法草案を作成した。しかし当時の政府は、これらの自由民権運動に対し、その機先を制し明治14年(1881)、10年後の国会開設を約し、このため自由民権運動はその方針を巡り混乱し、この憲法草案が日の目を見ることはなかった。

この全文204ヶ条からなる憲法草案は、昭和43年(1968)東京経済大学教授色川大吉氏らにより、五日市深沢家旧宅の土蔵より発見された。現在の日本国憲法に近いもので、基本的人権の尊重を重視し、国民の権利保障に重点をおいたものであり、人権意識の成熟度において、既存する民間憲法中屈指のものとされ、民衆憲法として反響を呼び起こし、発見者らによって「五日市憲法草案」と名付けられた。

卓三郎は、五日市憲法草案起草後の明治15年(1882)年には結核が進行し、五日市の仲間からの援助を受けて療養をしていたが、明治16年(1883)年、31歳の若さで死去した。

卓三郎は、自らの住所、身分、肩書き、氏名を、「自由県下 不羈郡 浩然之気村 貴重番地 不平民 ジャパネスク国法学大博士 タクロン=チーバー」と言っていたといい、その人柄が偲ばれる。