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宮城県東松島市浜市樋場

震災前取材

東北地方の開発のために、明治政府は宮城県桃生郡野蒜村(現在の宮城県東松島市野蒜)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画した。当時の大久保利通内務卿は、自ずから塩釜、石巻に出向き、石巻と北上川河口を視察している。

明治政府が東北開発のために、第一に計画実行したのが福島県の安積疎水、第二が山形、福島両県の道路計画、第三が宮城県の野蒜築港であった。これらは連携した計画で、安積疎水により猪苗代湖と阿武隈川をつなぎ、さらに阿武隈川と北上川を運河でつなぎ、その中間に一大港湾を開き、野蒜港を拠点とした東北地方の岩手県、宮城県、福島県、山形県を経済圏としてまとめようとする壮大な計画だった。

この築港計画のために、明治9年(1876)、安積疎水を完成させたオランダの技術者ファン・ドールンによって調査が開始され、翌年、野蒜が港湾に適地であることを内務省へ報告した。明治11年、野蒜築港第一期工事の関連として「北上運河」建設が決定し、同年、開削工事が始まった。

しかし、予想外の困難が次々におそった。最もひどかったのは明治11年(1878)秋の北上川の大水害だった。そのはん濫のため開さく工事は多大の損害をうけ、水門その他に不良の資材が使われていたこともありそれらは破壊された。それでも北上運河は予定どおり完成した。

同じ一期工事の新市街地も工事が進み、200軒もの新しい家屋が建ち並んだ。地元の野蒜村はすばらしい土木景気で、新市街地ができかかった時分は次のような唄が流行したほどであった。

野蒜新町 ほうきはいらぬ 若い女の すそで掃く

村の人たちも有頂天になって色々将来の夢にふけっていた。しかしこのときすでに、内容の変更、工法の変更等で予算面で大きな狂いが生じ始めていた。

港口の工事は、明治12年(1879)に着工し、はじめは予定通り進行していたが、それが海中に施行されるようになると激浪のためしばしば災害を被るばかりでなく、漂砂が予期に反して襲来して工事の進捗をはばんだ。それでも明治15年(1882)、一応全堤の築造を終った。

明治14年(1881)には「北上運河」が完成しており、明治15年(1882)8月には小蒸気船「米沢丸」が石巻-野蒜-塩釜間に就航した。明治17年(1884)2月には「東名運河」が竣工した。

しかし、竣工間もない明治17年(1884)9月、台風の襲来で東突堤の3分の1が一夜のうちに崩壊し、内港は閉鎖されてしまった。この野蒜内港の被害を調査した結果、外港の築港がなければ内港は使えず、さらに外港の建設には数百万円(当時)の予算が必要であることを報告し、第二期工事の予算も計上されることなく野蒜築港計画は中止が決定した。急転直下築港工事が中止になったことで、街は火の消えたようになり、破産した人も少くなかった。

この野蒜築港には、当初から反対の声も強く、当時の宮城県知事を初めとした仙台方面は、塩釜の港湾整備を主張しており、野蒜の築港に対しては懐疑的だった。計画当初には、東北には鉄道も完全な道路もなく中央との連絡は海上によるのが近道であった時代、この計画は北上川と阿武隈川の舟運を念頭に置いたもので、鉄道が各地に敷かれるなど、時代は刻々と変わっていた。

このような状況の中で、野蒜築港が再開されることはなかった。この築港の失敗により、東北の近代化は大きく出遅れた。その後本格的な近代的港湾の必要性が叫ばれ、塩釜港が整備されるのは大正に入ってからであった。