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宮城県多賀城市大代5丁目

震災前取材

 

多賀城市の南端、七ヶ浜へ続く県道に面した凝灰岩の露頭に、27基の横穴が口を開けている。これは古墳時代の終わり頃(7~8世紀頃)に造られた大代横穴古墳群である。

東北地方の古墳の出現は、4世紀初頭で、この時期には東北においても階級社会が生まれ、各地に小規模の国が成立していたと考えられる。地域を支配した豪族達は、名取の雷神山古墳や、仙台の遠見塚古墳の様な大規模な前方後円墳を築造した。

しかしその後、東北での大和朝廷の力が強まるとともに、大規模な墳墓は造られなくなり、かわって横穴の墳墓が築造されるようになる。

横穴古墳は通常、死者の遺体を安置する玄室と、その入り口の玄門、外部との通路である羨道(せんどう)で構成されているが、大代横穴古墳群では、その多くは玄室の最奥部のみが残存している。

昭和59年(1984)に発掘調査が行なわれ、直刀、勾玉、切子玉、金環、土師器、須恵器などの副葬品が出土し、最も規模の大きな横穴からは北限の出土例となる金銅装頭椎大刀(こんどうそうかぶつちのたち)が出土した。これは大和政権との結びつきを窺わせるものとして注目される。