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宮城県東松島市大塩字中沢上

震災前取材

 

東松島市の大塩を通る、かつての東浜街道沿いにある。中世にこの地を支配した長江氏の祖にあたる鎌倉権五郎平景政(かげまさ)が、桓武天皇の第5皇女を祭神とし勧請したと伝えられている。鎌倉権五郎景政は桓武天皇を祖としているためであろう。

後三年の役の折、源義家に従軍してきた鎌倉権五郎平景政がこの地を通った時に、この地で戦勝を祈願したと伝えられる。後にその功により、義家から深谷保を賜った。

この新山神社には以下のような伝承が伝わる。

昔、新山神社の辺りに長者が住んでいた。子供達はみなわがままで、飯を食するとき飯粒をこぼしても、それを拾って食べようともしない。周りのものが米作りの苦労を話して聞かせても、一向に聞き入れる様子もなかった。

或る年、天候が悪く飢饉となり、餓死する者も沢山でてくるほどだった。そんなある日、一人の娘が長者のところにやってきてか細い声で助けを求めた。今にも倒れそうな細い体を、一本の杖で支えて物乞いをした。

長者は「乞食などにやる米は、一粒とてない」とことわったが、娘は、「流し場に流れ落ちたもので結構です」と娘は土に伏し頼んだ。長者は、それならばということで、流し口に流した子供達のこぼした米粒を、朝晩食べきせてやることにした。

この娘は、長者の家の下女となって働いたが、何時もみんなといっしょに食事をとったことはなく、流し口に小さなかごをつるしておいて、溜ったご飯粒を食べていた。寝るときは、夜具もなく、大きな米つきうすの中に入って寝た。

それから何年となく、長者の家で下女奉公しているうちに、長者の子供たちも娘を見習い、一粒のご飯も粗末にするようなことはなくなった。家内も明るくなり、やがて飢饉もおさまり、村ももとのような住みよい村にもどった。

その頃、だれいうとなく「あの娘は、ただの娘ではない」と、うわさするようになった。ある闇夜のこと。長者の家から、一条の光が北の方へとんでいった。その時から、この不思議な娘は、長者の家から姿を消してしまった。村人たちは総出で、娘の行方をさがしたところ、となり村の高い山にある一本の老杉に光り物が止り、やがて消えたということが判ったが、娘をさがし出すことは出来なかった。

村人達は、光り物が止まった山にお社を建て、行方のわからない娘を「神様」として祀った。米を大事にしたので、五穀豊穣の祈願をこめ、初穂を献じて盛んにお祭りをするようになった。

後になってこの娘は、垣武天皇の皇女の大宅内親王であることが判明した。ある出来事があって都落ちし、供の裏切りにあいながらも一人でこの地へたどりついたのだという。村の人々の尊信は、ますますつのったという。

また、以下のようにも伝えられる。

大同2年(807)、桓武天皇が崩御し平城天皇が即位すると、伊予親王(桓武天皇の子、平城天皇の弟)は、藤原宗成に謀反を勧められた。しかしこれが発覚し、親王及びその母藤原夫人吉子は捕らえられ、川原寺に押し籠められた。食を与えられず、両人は薬を呑んで自殺した。

伊予親王の妹の大宅内親王は、自分に災いが降りかかるのを恐れ、難を逃れて北陸道より出羽に至り、酒田の津より最上川を遡り陸奥に出て、荒浜より下って、深谷の小野邑名主の家に乞い住まった。その様子は気品にあふれ、人知れない慈しみを持ち、常人とは異なっていたので、名主は国司にこのことを伝えた。国司は名主にすぐに小野邑の小野本郷に住まいを建てさせ、移り住まわせた。

大宅内親王は穀物を倹約し、米の一粒も捨てることなく、それは常人とは異なっていた。内親王の薨去後に、人々はその徳を仰いで五穀の神として祀り、新山大権現と称した。

この伝承に出てくる「大宅内親王」は桓武天皇の第5皇女で、平城天皇の后だった。この時期に薬子の乱がおきて、大宅内親王は后を辞している。

 

・姥杉

新山神社拝殿前左側に立ち、樹高約30m、地上1.5mの幹囲5.6m、で、新山神社の御神木。伝承にある「光り物」がとまったという杉である。