宮城県塩竃市浦戸野々島

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野々島は、東に寒風沢島、西に桂島の両島に挟まれた位置にあり、これらの島々とともに江戸時代には千石船の集会地として賑わった。この島には古い時代からの内海長者の伝説があり、独自の貿易を行っていたことがうかがわれる。

内海長者は、承久3年(1219)に、承久の乱に関わり、野々島に逃げのびて住まったと伝えられ、朴島には内海氏が関与すると思われる弘安10年(1287)銘供養碑が建っている。

内海長者は、恐らくはこの内海氏を祖とした一族に関わるもので、その後の中世の時代を、島と言う立地条件もあり他氏の支配を受けることも少なく、独自の貿易を行っていたのだろう。

それが、貿易で巨万の富を蓄え、島のいたるところに富を貯えるために掘られた洞窟や、宝を隠すためのけもの道といった伝説を生んだものと思われる。

島には、次のような内海長者にまつわる伝説が残っている。

むかし、野々島には内海長者が住んでいた。内海長者は舟を何十隻ももっていて貿易を行い、たいそう銭をためていた。

この長者はよくばりで、朝から晩まで使用人を働かせ、ちょっとでも休んだりすると持っている杖で、「もっとはたらけ、もっとはたらけ」と使用人をこずきまわした。しかし内海長者は、朝は遅く起きて酒を飲み、酒を飲んだ後朝飯を食べていた。

ある日のこと長者は、いつものように朝ゆっくり起きて酒を飲み始め、それから朝飯を食おうとした。ところが下女が朝飯を持ってくると、飯粒が蛭に見えた。長者は「蛭を持ってくるやつがあるか」と怒鳴り散らした。だれが見ても米の飯だが、長者は蛭だと言って聞かなかった。

仕方がなく、長者はその後は朝も寝続けて昼に起きて飯を食うようになった。しかしまたある日から飯粒が蛭に見えるようになり、「蛭もってくるやつがあるか」と怒鳴り散らした。ちゃんとした昼飯をもっていったのに長者は蛭だと言って聞かなかった。また仕方がなく、それからは夕方までねて、夕飯から食うことにした。しかしいつのころからか長者には夕飯も蛭に見えてしまって、倉の中にたくさんの米が入っているのに、食べることができずにとうとう死んでしまった。

この野々島には次のようなはやりうたがある。

「朝寝するこは無限の鐘よ、朝の飯(まんま)が蛭(昼)になる」

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