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宮城県塩竃市一森山

震災前取材

鹽竈神社は、古くから東北鎮護、陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めてきた。 創建の年代は詳らかではないが、平安時代初期、嵯峨天皇の御代に編纂された「弘仁式」に「鹽竈神を祭る料壱万束」と記され、更に醍醐天皇の延長5年(927)に編纂なった「延喜式」にも「鹽竈神を祭る料壱万束」と記され、当時陸奥国より60万3束の正税が徴収されていた時代に、厚い祭祀料を授かっていたことが知られている。西南5kmの地にある奈良時代国府の鎮守府を兼ねた、多賀城の精神的支えとなって信仰されたと考えられる。

武家社会となってからは平泉の藤原氏、鎌倉幕府の留守職であった伊沢氏の崇敬が厚く、殊に伊達氏は慶長5年(1600)、伊達政宗が岩出山から仙台に居城を移し、慶長12年(1607)社殿を造営し、明治に至るまで歴代の藩主は大神主として神社を治め、社領、太刀、神馬等を寄進し自ら社参して衣服を改め神前に祈願した。

現在の社殿は、第四代藩主伊達綱村が元禄8年(1695)神社造営の計画をたてて工事に着手し、第5代藩主吉村の宝永元年(1704)まで9年の歳月をかけて竣功されたもので、拝殿の擬宝珠には当時の藩主、普請奉行等関係者の名前が彫り刻まれている。

本殿は三社とも木造素木流造桧皮葺、三方に勾欄の縁がある。別宮並びに左右宮拝殿は何れも朱漆塗入母屋造銅板葺で、宝永以降20年に一度屋根葺替の式年遷宮の制度が設けられ現在に至る。

平成14年(2002)、本殿、拝殿、四足門(唐門)、廻廊、随神門以下14棟と、石鳥居1基が、国の重要文化財の指定を受けた。