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宮城県塩竃市一森山…塩竈神社境内

震災前取材

文治鉄灯は、藤原秀衡の三男である和泉三郎忠衡が寄進したもので、扉に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」と浮き彫りがある。

「奥の細道」の中で松尾芭蕉は

「…神前に古き宝燈あり、かねのとびらの面に文治三年和泉三郎寄進とあり、五百年来のおもかげ、今目の前に浮かびてそぞろ珍し。かれは勇義忠孝の士なり。…」

と奥の細道に綴った。

この文治3年(1187)は、源義経が鎌倉の頼朝の手を逃れ平泉に保護されていた時期で、この年平泉の藤原秀衡が没し、奥羽の地は風雲急を告げていた時期である。

忠衡は、義経をかくまった父の遺言通り、最後まで義経を守ろうとしたが、文治5年(1189)、頼朝の圧力に屈した兄の泰衡は、義経を殺害し忠衡も殺害してしまう。

義経が殺されると直ぐに鎌倉の源頼朝は平泉討伐軍を起し、平泉軍を福島の阿津賀志山の戦いなどで打ち破り、藤原泰衡は自ずから平泉に火を放ち、三代の栄華は、灰燼に帰した。