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宮城県石巻市北村金堂二丁目

震災前取材

伊東七十郎重孝は、重村の次子として寛永10年(1633)この地に生まれた。工藤祐経の後裔で、伊達政宗に仕えた名将伊東肥前重信の孫である。この地の説明板には以下のような内容が書かれている。

「仙台藩は伊達兵部、原田甲斐の悪政で暗雲に閉ざされていた。重孝は主家のために伊達兵部を討たんとして、その機会をうかがっていたが、果たさず遂に捕らえられ、獄に投ぜられた。断食三十三日間、絶命の言葉を残して寛文8年(1668)4月、斬刑に処せられた。齢36歳、死に臨み、『我が霊魂三年の内に逆賊を滅すべし』と言ったが、果たして伊達兵部、原田甲斐一派は滅んだ。」

伊東重孝は、一族共々、誓願寺河原で処刑された。しかしその後寛文11年(1671)、伊達安芸の訴訟、そして酒井邸での原田甲斐による刃傷事件が起き、原田甲斐はその場で切り殺され、伊達兵部は失脚する。その結果、伊東重孝の忠烈が称えられ、四代藩主伊達綱村により伊東家は再興した。