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宮城県大崎市古川宮沢字舘ノ内

震災前取材

別名:鵜ヶ城

平安時代に、百足退治で有名な藤原秀郷が拠ったところといわれ、その頃から要害として堡が築かれたといわれている。平安時代末期には、長岡郡の郡司平資幹(すけもと)の居城となり、その後大崎氏の家臣で、葛岡太郎左衛門が拠り、次に宮沢遠江あるいは岩崎讃岐義久が居城にしたとも伝えられているが、築城年代や大崎一揆以前の城主について、不明な点が多く詳しくは定かではない。

天文3年(1534)新田頼遠の叛乱に端を発し大崎内訌が起こると、大崎義直は宮沢城で軍勢を整え、泉沢城の頼遠を攻めたと云う。天正18年(1590)大崎一揆の際には、大崎方の拠点となり、旧大崎氏の家臣であった岩崎讃岐義久は、周辺の河川や堀をせき止めて城の周囲に水を引き入れ、鎌田氏、飯塚氏、芳賀氏らとともに激しく抵抗し、伊達軍の攻撃を阻止したが、その後和議によって落城した。

一揆後、大崎氏旧領は伊達氏に与えられ、城に準ずる要害として重視された宮沢城には後藤康之が入り、その後上郡山氏が居城とした。延享4年(1747)長沼氏がこの地に移り、この地に1500石を得て、明治維新までの124年間居館とした。

本丸の規模は、東西約60m、南北約30mで、城内には守護神として鹿島神社、八幡神社を祀っていた。本丸の東に二の丸を構え、西に西館と称する郭があり、光岳寺付近に出城があった。現在は、本丸部に僅かに土塁を残すのみであるが、本丸周囲の水田に、かつての堀跡の形跡がうかがえる。