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宮城県石巻市月浦字月浦

震災前取材

慶長18年(1613)9月15日(陽暦10月28日)、支倉常長ら一行180余人を乗せた慶長遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ号」は、この牡鹿郡月の浦から遥かローマを目指し出帆した。

慶長遣欧使節は、イスパニア領メキシコとの交易の実現を目的とし、宣教師のソテロを正使、支倉常長を副使とし、伊達の家臣、上方の貿易商人、幕府の役人など日本人140名、スペイン人40名ほどの使節団だった。

使節団一行は、90日間の航海の後、当時イスパニア領のメキシコ・アカプルコに上陸した。その後イスパニア艦隊の船でイスパニアのサン・ルカル・デ・パルラメダに、さらにグワダルキビル河を溯ってコリア・デル・リオで船を下り上陸した。

慶長19年(1614)12月、イスパニアの首都マドリードに到着した一行は、翌年1月、イスパニア国王フィリップス三世に謁見し政宗の書状を渡し、この年の11月には、バチカン宮殿でローマ法王パウロ5世との謁見が実現した。ローマ法王は宣教師の派遣には同意したものの、貿易についてはイスパニア国王の同意が得られず、結果を得ることなく帰路につくことになった。

メキシコまで戻った常長は、サン・ファン・バウティスタ号で迎えに来た横沢将監らとともにアカプルコを出航、帰国の途についた。途中フィリピンに立ち寄ったところでフィリピン政府によって「オランダ艦隊の来襲に備えるため」という理由で船を買い上げられてしまい、帰国できなくなった。その後一般貿易船に便乗して長崎に着き、元和6年(1620)8月、出発地の月の浦港に戻った。

しかし、帰国した日本は、キリシタン弾圧の政策をとり、キリシタンを受け入れない世の中になっていた。その後常長は表舞台に立つことはなかった。晩年についても、帰国して2年後に病没したとも、隠棲してその後30年生き84歳の天寿を全うしたとも伝えられ定かではない。