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宮城県美里町字西館

震災前取材

別称:鶴館、西館

現在は鶴頭(かくとう)公園となっている。周囲から十数mほど小高くなっている場所が本丸跡で、南には鳴瀬川が流れ、北側を内堀で囲み、本丸の西側には西曲輪、東・南・北側には下中屋敷を配し、その周りは外堀で囲まれている。

創建の時期は明かではないが、中世には金成町の有壁に本拠を持つ有壁摂津守の居城であったとされている。しかしこの地は葛西氏と大崎氏の争奪の地と推測され、天正年間(1573~85)は大崎氏の支配下にあり、室田小斎が城主として在城したといわれている。

大崎葛西一揆以後は伊達領となり、慶長16年(1611)、後藤孫兵衛信康がこの地を拝領し、元和6年(1620)、信康の子近元が修築し、以後明治維新までの248年間、代々後藤氏の居館として続いた。

後藤信康は、伊達政宗から厚い信任を受け、天正13年(1585)に檜原城主に任じられ、葦名氏との戦いで功績を挙げた。その器量は武田家重臣高坂弾正の再来とまで言われるほどだった。文禄元年(1592)からの朝鮮出兵においては、政宗に従って渡海し功を挙げた。慶長5年(1600)には上杉景勝軍と戦って武功を挙げている。

常に黄色の母衣を着けて戦場に赴いたため、「黄後藤」と称されて恐れられた。また、檜原城主であったとき、政宗に対して、「あまりに退屈なので、城主を解任して戦場に赴かせてほしい」と言ったと云う逸話も残っている。