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宮城県石巻市中野字的場

震災前取材

文治5年(1189)奥州合戦において大功を挙げて奥州総奉行に任ぜられ、寺池城を本拠として勢力を拡大した葛西清重が、北上川防備のために築いたとされる。後に桃生郡を拠点として勢力を拡大した首藤氏の居城となるが、その時期は明らかではない。

首藤氏は、平泉征伐の軍功で、桃生24郡を拝領した。この地の最大勢力は葛西氏だったが、葛西氏は一族間に内訌が続き、首藤氏は葛西氏と対立していた。

永正8年(1511)、桃生郡と牝鹿郡の境のことで、首藤氏と葛西氏の間で紛争が生じた。このことで「永正の合戦」がおこった。首藤軍は大森城、七尾城に籠城し、葛西勢は首藤氏の牙城である中島館、七尾城を北上川沿いに取り囲んだが、首藤方の夜襲により葛西軍は潰走した。

葛西軍はその後再度行動を起し、今度は兵糧攻めを行った。首藤氏の籠城軍は餓死寸前に追いやられついに落城し、首藤氏は歴史の表舞台から去った。

その後葛西氏の支配に帰し、その一族が居住したが、天正18年(1589)豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏は滅亡、同時に廃城となった。

本丸、二の丸、三の丸、空堀、門跡などが現存する。ちなみに七尾城という名称は、主城のほか西北に各3ヶ所ずつ出城が配され、併せて7つの城から成っているからという。