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宮城県石巻市大森字大平

震災前取材

大森城は大森山一帯が城である壮大な山城。本郭跡、二の郭跡、空掘、土塁などの遺構が現在も見られる。城郭は梯郭式で、鶴翼状に郭が配置されている。高さ55m、東西600m、南北250m以上にも及ぶ。

この城は中世の桃生郡主、山内首藤氏の本拠城である。首藤氏は平泉征伐の軍功で、桃生24郡を拝領し、南北朝から室町時代中期頃、桃生郡永井城より移ったとされる。

このころ、この地の最大勢力は葛西氏だったが、葛西氏は一族間に内訌が続いていた。その葛西氏に伊達氏から宗清が入り、伊達氏の干渉を受けるようになった。葛西家四宿老の一人の末永氏は反宗清の立場をとっており、これに桃生深谷の長江氏、登米の鬼越氏、そして山内首藤氏らが葛西氏打倒を目論んで末永氏を支援し、葛西領内は混乱が続いていた。

永正8年(1511)、桃生郡と牝鹿郡の境のことで、山内首藤氏と葛西氏の間で紛争が生じた。葛西宗清の山内首藤氏に対する怒りは爆発し、記録に残る桃生郡内の合戦としては最大級の「永正の合戦」がおこった。

葛西宗清は諸軍を率いて首藤軍を攻め立て、首藤軍は大森城、七尾城に籠城した。葛西方は、江刺、薄衣、黄海氏らがぞくぞくと石巻に集結し、首藤氏の牙城である中島館、七尾城を北上川沿いに取り囲み、葛西軍の一方的勝利に終わるかにみえた。しかし、首藤方は夜戦をしかけ、葛西軍を破り、葛西軍は潰走した。

葛西軍はその後再度行動を起し、大森・七尾両城のまわりに長囲いの諸陣をひき、山内軍の機動作戦を封じ、兵糧攻めを行った。ついに首藤氏の籠城軍は餓死寸前に追いやられ、大森城は落城した。

首藤貞通は葛西の軍門に降り、この地を去り高野山に上り、読経三昧の生活を送り、大永二年(1522)に死去したと伝えている。首藤氏の後裔は、伊達氏に仕えたといわれている。また、相馬氏の賓客として遇されたとかの伝えもあるが確かではない。

首藤氏の敗亡後、葛西家臣男沢氏が居住し、桃生郡は葛西氏が支配するところとなった。