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宮城県石巻市新館二丁目

震災前取材

重吉神社は、伊達政宗に仕え、北上川を開削し、石巻繁栄の礎を築いた川村孫兵衛重吉が、生前の功労により大正期に正五位が追贈されたのを記念して創建された神社。

川村重吉(しげよし)は、天正3年(1575)毛利氏家臣川村常吉の子として、長門国阿武に生まれた。毛利輝元に仕えていたが、関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった毛利氏は、大幅に減封され、その際に浪人となった。当時伊達領であった近江国滞在中、伊達政宗にその才能を見出されてその家臣となる。

このとき政宗は、重吉に5百石を与えようとしたが、重吉はそれを辞退し、そのかわり荒地である野谷地を所望したと言う。重吉は与えられた野谷地を数年がかりで開発し、1千石余りの美田に変えて見せたと云う。

毛利家臣の頃にその才能を発揮する機会はなかったが、重吉は治水工事等の土木工事技術に非常に優れた人物であった。政宗は重吉に北上川の治水工事を命じ、工事は元和2年(1616)から寛永3年(1626)までかかり完成した。重吉は、工事費ねん出のため自ら借財、あるいは工事現場に泊まり込むなど、筆舌に尽くせぬ労苦を重ねたが、この北上川の大改修により、流域では32万石余の新田開発も行われ、仙台藩の実質石高を大きく向上させた。

また、この改修により、石巻から盛岡に至る舟運が開かれ、葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻は一躍米の集散地となった。河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米倉が立ち並び、江戸へ米を運ぶ千石船が往来し繁栄を極めた。

工事完成後は石巻に住み、慶安元年(1648)、74歳で没した。