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宮城県石巻市北境字舘

震災前取材

築城年代、築城者など詳細は不明。しかし、山内首藤氏と葛西氏が争った永正年間(1504~18)には、山内首藤氏の南の拠点となった。高さ約30m、東西約150m、南北約80mの規模を持つ山城で、東西に二つの郭を配した輪郭式の城館であったと云う。

この館の下をかつては街道が通っており、葛西氏は石巻から首藤氏の大森城を攻めるには、まずこの館を落とす必要があった。しかしこの館はかなりの要害であったのか、永正合戦では、葛西勢は海上を廻って本吉郡に上陸し、大森城を囲んだと云う。

藩政期には、伊達政宗の家臣の脇坂外記安景が一時この館に居住した。安景は、賤ヶ岳七本槍として有名な脇坂安治の弟で、慶長18年(1613)より伊達氏に出仕していた。しかし元和元年(1615)、政宗に従って大坂夏の陣に出陣し討死、その遺骸はこの館へ運ばれ埋葬されたと伝えられる。