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宮城県石巻市桃生町太田字沢入畑

震災前取材

桃生城は、古代陸奥国に置かれた城柵の一つである。天平宝字2年(758)に造営を開始し、同4年に完成した。その後宝亀5年(774)に蝦夷による攻撃を受けた。城内の主要な建物、北辺、城内築地塀、櫓は同時期とみられる火災で焼失した。この火災はこの蝦夷による桃生城攻撃が原因とみられ、その後復興はされず、桃生城は約15年ほどでその役割を終えたと考えられる。

遺跡の範囲は、東西約800m、南北約650m、面積約52haに及び、外周を築地塀、土塁、材木塀、溝などによって区画されていた。さらに北半部は築地塀と溝によって東西に分けられていた。桃生城の中心としての役割を担った政庁は、東側のほぼ中央に位置する。築地塀で方形に区画した南北約72m、東西約66mの範囲にあたる。内部の中央北寄りに正殿、その北に後殿、正殿の南で東西対称に東脇殿と西脇殿が、建物方向に規則性をもち整然と配置されている。建物は瓦葺きとみられる。正殿の南には広場が設けられていた。

遺跡の東側は政庁以外にも建物が建ち並び、実務を担った官衛地区が造られたのに対し、西側は建物や住居が築かれない空間であった。