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宮城県登米市中田町浅水字上川表

震災前取材

慶長11年(1606)、仙台藩では治水策として北上川の流路変更を計画、初代登米領主、伊達相模宗直は、上沼大泉から浅水に到る、6.65kmを築堤し、豊沃な登米耕土の基礎を確立した。

しかし、その後もたびたび堤防は決壊し水害をこうむった。このため、二代領主の伊達若狭宗勝も決壊の渦を絶つため、さらに3年の歳月を費やして修復し、民政を安んじた。

この堤防を築くにあたり、「生き土手」にすれば、どんな激流にも押し切られないと、誰言うともなく言いはじめた。

この地に、南部藩の出身で、村の彦総長者の家で働いていた「お鶴」という気立ての良い娘がいた。お鶴は、土手を築く者たちの間で、人柱の話しが出ているなど知る由もなく、いつものように弁当を運んで行き、人柱になってしまった。

以後、この堤防は決壊を免れ、村人達はお鶴を憐れみ、祠を建てて「お鶴明神」として祀り、冥福を祈った。

祠の近くには、「お鶴涙の池」があったものが明治期に埋没し、現在復元されている。