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宮城県登米市中田町浅水字新田

震災前取材

関ヶ原の戦いの後、北上川流域は、その上流、中流は南部氏、下流域は伊達氏の支配が確定し、これにより本格的な北上川流域開発が始まった。

北上川は、宮城県に入ってから複雑に流れ、登米寺池の北西を流れ、佐沼の南側で迫川と合流し、一面の野谷地を形成していた。登米寺池の領主の、伊達相模守宗直は、この野谷地を美田にすることを目的に、北上川の流路を西から東につけ変えて,迫川と切り離し、登米市津山町柳津を通した。

このため、約6.6kmに及ぶ堤防を、慶長10年(1605)から7年をかけ築造した。この堤防は、宗直の名前にちなんで、相模土手と呼ばれるようになった。