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宮城県登米市登米町寺池

震災前取材

文治5年(1189)の奥州合戦により奥州藤原氏が滅亡すると、この地一帯はその武功により小野寺氏が所領とした。南北朝期になり、鎌倉期より奥州惣奉行として大きな影響力をもっていた石巻葛西氏に従うようになり、葛西氏はこの地に城を建て、実質的に支配するようになった。

しかし葛西氏は、 戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかった事から、奥州仕置により改易され、豊臣軍と対峙したが各地で敗戦し、寺池城、佐沼城ともに落城した。この地一帯は秀吉の家臣の木村氏に与えられたが、葛西大崎両氏の旧家臣団らによる大規模な一揆が起こったが、伊達政宗らに鎮圧された。一揆鎮圧後は伊達領に組み込まれ、慶長9年(1604)に、伊達家一門の白石宗直が1万5千石で入城、周辺を統治し、町づくりが行われた。

この地は、石巻と一関を結ぶ一関街道と、寺池と築館を結ぶ登米街道が交差し、また北上川舟運の川港でもある交通の要衝だった。このため、周辺の政治的、経済的な中心地として発展した。

町割りは、寺池城を中心に、南側に武家町を配し、北上川沿いに延びた一関街道沿いには商人町、城から城下町を挟んだ丘陵には寺町を配した。寺池には、これらの町並みがよく残っていて、武家町には鈴木家住宅(春蘭亭)を代表に10棟の武家屋敷が現存し、商人町には鈴彦商店や海老喜などの町屋が軒を連ねている。明治時代に入ると、登米郡の中心的存在だった寺池は、登米県の中心として県庁が置かれ、洋風建築が建てられた。

しかし、鉄道が発達し北上川の舟運は廃れ、主要国道や東北道からも外れた地であることから、現在は往時の賑わいは見られないが、しっとりとした落ち着いた町並みを今に残している。