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宮城県登米市迫町佐沼字内町

震災前取材

宝暦7年(1757)、亘理氏は高清水から佐沼に所換えになり5千石を領し、周りを水濠と川に囲まれた佐沼要害に居を構えた。この佐沼要害の西側にある旧亘理邸は、九代目隆胤が佐沼城から移り住み、「古鹿山房」と称し広く文筆活動を行ったところと伝えられる。

亘理氏は、佐沼に移ってから111年間佐沼郷を治めたが、戊辰戦争後、佐沼要害は宇都宮藩の取締地になった。

佐沼亘理氏の祖の亘理宗根は、伊達の三傑の一人茂庭綱元の四男で、母は、豊臣秀吉が綱元に与えたと云われる香の前である。

綱元が絶世の美女だったとされるこの香の前を秀吉から拝領したことで、綱元は伊達政宗の怒りをかい、一時伊達家を出奔した。その後綱元は伊達家に帰参するが、そのとき香の前を政宗に差し出したと云う。このような経緯もあり、亘理宗根は政宗の落胤であるとの説も根強くある。

亘理重宗の嫡男定宗が、「伊達」姓を与えられて涌谷伊達家を興すことになり、この亘理家の名跡を宗根が継ぐことになり、慶長11年(1606)、宗根は7歳にして亘理美濃守重宗の養嗣子となり高清水に移った。大坂夏の陣では、大野治長の武将の中川隼人の首を獲るなどの功をあげ、元和2年(1616)、亘理家を継いだ。