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宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎字裏山

 

別名:鶴舞城、岩ヶ崎城

葛西氏の一族の富沢河内守道祐によって築かれた山城で、最高部を本郭とし、東へ二の郭、三の郭、蛭子館と大きく四つの郭で構成される。東西約650m、南北約400mで、それぞれの郭には多くの腰郭などを配置し、それぞれ複雑な独立した郭を形成している。

富沢氏の祖は、葛西家の出で右馬助と言い、のちに日向守道祐と名乗り、岩ヶ崎に鶴丸城を築き城主となる。以後五代日向守直景まで在城した。この五代直景は、岩ヶ崎の暴れ者として恐れられた。

富沢氏は葛西支族とは言いながら、大崎氏との境界線上に居た為大崎氏の影響を受けることもあり、葛西氏と大崎氏の間で広大な土地を有する富沢氏は、双方に対して独立した立場をとっていた。時々近隣を従え、葛西領を侵したりもし、葛西方でも手をやき時には大軍を擁して岩ヶ崎城下迄攻めよせたこともあった。しかし、暫くして又暴れ出す。これは大崎氏や、山形の最上氏の後押しがあったためでもあった。

しかしながら、このような一族内部での争いに明け暮れた葛西氏と大崎氏は弱体化し、結局、奥州仕置きにより葛西氏、大崎氏はともに滅亡し、岩ヶ崎の富沢氏も滅亡した。

その後、伊達政宗の五男宗綱、六男宗信が城主となったが早世し、後、石母田氏、田村氏、古内氏、茂庭氏を経て、中村氏が元禄7年(1694)藤沢から転封されがこの地に入った。中村氏は元は新田氏を称し、伊達氏累世一家の重臣であった。勲功により伊達氏の旧姓である中村の姓を賜り、以後中村日向を名乗った。中村氏九代の中村日向義景は、18歳で参政、28歳で六十二万石の家老となった。18歳の時、六代藩主伊達宗村の公女の認(トメ)姫を娶ったが、この姫は盲目であったが賢夫人として名高い。

当時の仙台藩は、関東河川修理、冷旱害水害による米の減収、仙台城下の大火災等で藩財政は破たんに瀕していた。中村義直が家老に就任した翌年、天明3年(1783)は収穫皆無の大凶作で餓死者は20万人に及んだ。さらに江戸藩邸再度の焼失、仙台城二ノ丸の全焼、蝦夷地派兵と続いたが、これを卓越した政治的手腕で切り抜けた。

文化6年(1809)1月に、九代藩主伊達周宗が14歳で病死した。大名は17歳未満で死ねば跡目相続は許されなかった。これによれば仙台藩は、当然没収か半知と言う憂き目にあう恐れがあり、寛文事件以来の仙台藩の危機であった。中村義直は周宗の死を三年間厳重に秘して、事なきを得た。

その間栗原地方の産馬の基礎を築き、大槻平泉を支持して養賢堂を画期的に拡張した。また馬術をよくし、騎射の名手で、槍も本心鏡智派の名手であった。天保4年(1833)没、享年79歳。中村氏はこの地で明治維新まで続いた。