震災前取材

岩手県陸前高田市竹駒字上壺

 

玉山は、気仙一帯の大金鉱であり、玉山金山の発見は、天平年間(750年頃)ともいわれているが明らかではない。奈良の大仏には玉山の金が使用されたともいわれている。また平泉藤原時代の栄華は玉山金山によるものともいわれ、今にのこる金色堂でその産金量を推察でき る。

文禄元年(1592)より豊臣秀吉直轄の金山となり、同4年(1595)伊達政宗に移管された。当時の玉山金山は「玉千軒」と伝えれているほどの隆盛だった。その後、伊達家が金山を徳川幕府に没収されることを恐れて、みずから金山の坑道をふさぎ、埋めて「金はでない」としたという。このとき、黄金でできた牛が金山で働く人たちとともに坑道に埋まったといい、現在も、金のべコ(金の牛)が千人坑に眠っているとオソトキの民話で語りつがれている。

明治37年には、政府が玉山金山を抵当にして日露戦争の軍資金に欧米から8億円の借入をしている。

・オソトキ伝説

昔、金掘りたちが坑内で牛の形をした大きな金塊を見つけて喜んでいた。この中に、山の神への信仰の篤い「オソトキ」という名の飯炊き女がいた。オソトキも掘り子たちといっしょになってこの金のベゴ(牛)を引っぱりだそうとしたがびくともしない。

そのとき、坑口の方から「オソトキ、オソトキ」と呼ぶ声がした。オソトキは誰が呼んでいるのかと首をかしげながら外に出ると、坑奥でものすごい音がして坑道がくずれ、千人の掘り子たちが金のベゴとともに消えてしまった。